はるとかわ 世界の一隅日記

ハーブと、語学と、日々雑感。最近は香りが気になる今日この頃。

一番最初の”読書”の話。(ヘルマン・ヘッセ、『車輪の下』)


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「本」といえど、色々ありますよね。眺めているだけで楽しい絵本もあれば、役に立ちそうなハウツー本、ゴリゴリ厚みを感じる文学全集、なんだかおしゃれに見えちゃう詩集。その中でも「読書出来る」本というのは、実は限られていると私は思っています。読んで、それで終わってしまうのは、本当の「読書」とは言い難いのではないか。読んだ後の自分の人生に活きてこそ、ずっと考えさせられるからこそ、他の本とリンクするからこそ、活きてくるものが「読書」という体験なのだと勝手に思っています。今回の記事では、私が最初にこのような経験をすることになった本、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』とその思い出について書いていきます。

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車輪の下』について

車輪の下』、言わずもがな有名なドイツの文学作品です。小さな町で一人だけ優秀だった主人公ハンス・ギーベンラートが、マウルブロンの神学校を受験する所から物語は始まります。次席で合格したハンスが神学校に行ってみると、そこには色んな奇天烈な(?)クラスメートが居るわけです。中でも問題児であるヘルマン・ハイルナーからは、自分の心に実はしっくりくる、反抗精神を学びます。ハイルナーは結果退学となりますが、親友を失ったハンスはそれから意気消沈。彼もまた学校を去る事になります。地元に戻ったハンスは、あれやこれやと色々巻き込まれて、最後にはオフェーリアよろしく川を下っていくのです。

いわゆる”良い子”である事の苦悩、本当は自由に羽ばたいてみたいのにという抑えつけられた苦しみ、それを助長する社会=大人たちが描かれている、というのが、まあ正統な読みではないでしょうか。因みにこれ、作者のヘルマン・ヘッセの実体験を基にした作品と言われています。実際、ヘッセさんは神学校から脱走してますしね…。ヘッセさんの作品の特徴として、相反する性格の人物や師弟関係にある人物を二人、物語の中心に置くということがあります。『車輪の下』ではハンスとヘルマン、『デミアン』だとシンクレールとデミアン、云々。一人の中にある相反した部分を乗り越えようとする動きが、この二つの人物のやり取りに託されているのです。なので、ヘッセの作品を読み進めていくにしたがって、この内的会話の質がより深められていくのが面白い。その導入として、『車輪の下』は是非お勧めです。ちょっと青春っぽいですが。

 

良い子もしんどい

この本を読んだのは小学四年生の時でした。家の本棚に、今では滅多に見かけない角川文庫版、秋山六郎兵衛訳があったのです。(現在本屋には、新潮文庫から出ている、日本におけるヘッセ研究家の第一人者である高橋健二訳の文庫がもっぱらあるようです。他の方も訳されていますが。)それまで特に本というものは読んできませんでした。絵本も、病院の待合室で少し捲る程度でしたし、活字はなんだか怖いものだと思っていたのです。それがどうしていきなりヘッセを読み始めたのかはよく覚えていません。ですが、読んだ後でこの本は自分にとってとても大切なものになりました。

というのも、私が立派な”良い子”だったからです。小さいときは器用だったので、運動以外は何でも良く出来ました。テストでもいつも100点。勉強面で特に苦労したことはありませんでした。体調面こそ脆弱でしたが、非常に恵まれていたと思います。ですが、100点が当たり前になってしまった世界は味気ないものでした。特に褒められることもなく、自分でも別に嬉しくもなく、むしろ99点とか98点なんか取った日には欠けた点数に対して文句を言われるし、自分でも嫌になる。(今思えば、98点でも十分すごいぞ…と思いますけれど!)「出来て当たり前」は、ものすごいプレッシャーです。正直この癖は今でも引きずっています。(投げ捨てたい…)

そんな状態の時に『車輪の下』を読んで、そこで優等生でなくてはいけない・優等生を求められて苦しくなっているハンスがもがいているのを見て、それはもう他人事ではなかったのです。心にぐっとくる読書って、結局自分の物語に出会った時だったりしますよね。自分が一人だけじゃないんだな、と安心できるひと時だったりします。それが、私にとっての『車輪の下』だったのです。この本を読んで、「私って息苦しかったんだな!」と、少なくとも自覚する事が出来ました。そこから脱け出すのには、かなり時間がかかるのですが、それでもそう気が付けたことで、一気に視界がクリアになりました。

自分に似た状況を、言葉で丹念に描いている本に出合う事で、私の脳内にようやく「思考する」というガジェットが搭載されました。正直今でも、それ以前の私が何を考えて生きていたのか思い出せません…。この本を読んだことで、自分で考え始める・というか、考えさせられ始めたのです。これは良くもあり悪くもあることでしたが、私にとってのpoint of no returnというか、この読書無しに自分は在りえない、そう言える経験でした。(それから誕生日プレゼントのリクエストが全部ヘッセの文庫版になっていくのはまた別の話…。)

敢えて60点でいきたい

といっても、すぐに状況が良くなることはなかったです。ハンスも結局自分らしく在れないままでしたし、『車輪の下』はハッピーエンドで終わる話ではありません。私も、自分の中にある”良い子”への呪縛を上手く扱えなくて、やきもきしたままでいます。今でも少しもったいないと思うのは、自分で成し遂げた成果について素直に「やったあ!」と喜べない事です。自分が受け取っていいことを、むしろ積極的に受け取っていこうよ!ということを、上手く受け取れないのです。こんな調子でずっと優等生で居てしまった所為か、気が付けばそのまま大学に残って研究をしていました。

色んな事情があって研究の道は諦めましたが、ある意味それで良かったのだと思います。ようやく、今まで惰性で続いていた道が途切れてくれたな、と。これからは別に、敢えて成功しなくても良いな、と思える気軽さがあるような気がしています。「こうやって型どおりに論文を書く!」といった、自分の知っている世界から程遠い民間企業です。これからは肩の力を抜いて、もうなんだっていいから、とりあえずもうちょっと我がままになってみたいなあ。

こないだ修士論文を提出しました。その時にふと思ったのですが、うちの大学では(殆どの大学がそうだと思いますが)100点満点中60点もらえれば合格なのです。普通の授業の単位もそうです。「6割でいいんだ。」そう思うと、なんだか気が楽になりました。別に100じゃなくていい、60で良いじゃん。…性格柄、どうしても気になって直して詰める分を合わせて考えても、6割を目指せば上々じゃん。こう考え始めてから、気兼ねなく色んな事に手を出せるようになりました。ブログを始めたのもその一環です。「別に、100%の文章でなくてもいい。とにかく発信してみよう。」そう思って今も書いています。絶対誤字脱字とかある。でもまあいいや、気が付いたら直していこう。そのくらいの気楽さでいます。

まとめ

という訳で、ついつい100%を目指してしまう完璧主義の方は、是非一度『車輪の下』をお手に取ってみてください。願わくばあなたの苦しみが、あなたを解放してよりあなたらしい人生へと導いてくれますように。

それではまた!

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