はるとかわ 世界の一隅日記

ハーブと、語学と、日々雑感。最近は香りが気になる今日この頃。

『中世の秋』byホイジンガ


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こんにちは!はるとかわです。今回はホイジンガの『中世の秋」の読書メモです。

私は”中世ヨーロッパ”という概念に滅法弱く…別に憧れている訳ではないのですが、非常に気になります。留学中は古フランス語の授業を取っていたのですが、これは9世紀~13、14世紀ごろまでフランスで話されていた言語です。現行のフランス語と似て非なる言語なのですが、何故だか当時は結構読めました。よく分からないけれど、なんて書いてあるのかは大体分かる…そんな謎でミステリアスな時間を過ごしていたのが懐かしい。

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『中世の秋』とは

この本はオランダ人のヨハン・ホイジンガ1919年に出版した本です。中公文庫から上下巻の分冊で、堀越孝一訳で出ています。原題はHerfsttij der Middeleeuwenです。タイトルの『中世の秋』とは、中世の時代にも、秋のように実りの多い季節があったということ、充実した文化が存在していた事を示唆します

それまで、ヨーロッパの歴史において中世という時期は暗黒時代でした。魔女狩りなんかもあった時期だし、ペストも流行ったし、むしろ中世の後に続くルネサンスの方がインパクトもあるし素晴らしく輝いている…という事で、あまり評価の高くなかった時代です。そこに、この本が登場して「中世も結構楽しい時代だぞ!」と訴えかけたわけです。

『中世の秋』の内容は、主に13~14世紀のフランドル地方(現在のオランダやベルギー、北フランスの一部)の文化に焦点を絞っています。限定的な素材ではありつつも、過去に残された資料などを一瞥しながら、独自に中世のイメージを形成しています。以後、中世欧州文化に関する研究が盛んになる端緒とも言える著作です。

面白かったところ

①訳者さんのホイジンガへのツッコミが容赦ない

いきなり内容とは関係無いことですが(笑)訳注を読んでいると、訳者である堀越さんが結構遠慮なくホイジンガの文章に文句を言っていますホイジンガはこう書いているけれど根拠薄弱である…ホイジンガは間違っている…このホイジンガの感性はどうかと思う…出典は書いていない…「正確に訳しているつもりです」(下巻、p.208.)でもホイジンガの言葉に疑問を覚える…などなど。

これには、この本が出版されたのが1919年である、という時代的な背景が大きいと思います。昔の本って、結構適当な事書いてあるんですよね。(※勿論ちゃんとしている著作もあります!!!)個人的な感覚で言うと、1960年代のフランスの思想界隈の著作でさえ、引用について根拠を示していない例が結構あるので…1910年代ともなれば、そこらへんは結構緩かったのだと十分推察できます。当時は今のようにアーカイブが充実していませんでしたし、知識の大部分は頭で暗記するものだったので、思い違いや混同もあったのでしょうね~

この本の意義は、本の内容にあるというよりも、中世という暗黒時代にスポットライトを当てた点にあります。実際、後代の研究者が、いわばホイジンガを乗り越え訂正する形で中世についての研究を築き上げてきたのでしょうから。なので、訳者の方がツッコミの嵐を降らせるのもよく分かります。別に、このツッコミが本書の価値を下げるわけではありません。ただ、今の時代にホイジンガを読むなら、より正確に理解を深めるために、ツッコミ(訳注)という形でホイジンガの言葉を訂正したり保留する必要があるのです

とまあ、真面目に書いてみましたが、単純にツッコミ、面白いです

②中世の感性って無邪気。

さて、ホイジンガが描いた中世の人たちの感性についてです。

皆純朴で、なんだかかわいい。下巻に収録の17章「日常生活における思考の形態」を読んでいて面白かった三つをピックアップ。

・無機質なものを擬人化する傾向がある。

例えば、家や建物、教会の鐘、牢獄になんかさえも名前を付けていたようです。今でこそ船には名前を付けますが、我が家を愛称で呼ぶところはあまり無いような気がします。でもなんか、良いですよね…。

・たった一つの事例から、一般論を導きたがる。

個別の出来事の中から、常に普遍的な教訓のようなものを引きたがる、そんな貪欲な精神があったとの事です。ちょっとした事でも、聖書を持ち出したり、神のみ心は云々…と語り出したりしてしまう。ことわざやモットーも大好き。

・すぐ信じて疑わない。

批判的に判断する能力の欠如です。庶民のナイーブさについては言わずもがなですが、ホイジンガは特に、当時の歴史家について言っています。思いついたことをツラツラと書き連ねるだけで、そこに著者の判断が光っていない、と。つまりは検証作業が足りない、という指摘だと私は読みました。客観的な事実を歴史として述べるのではなくて、「私が聞いたところによると…」という、主観的な語りを歴史と呼んでいる姿勢に、ホイジンガは歴史家として文句を言いたかったのでしょう。そして、それらの主観的な言葉が、これまた何の検証作業も無く、正統なものとして受け継がれていく。

とまあ、このように皆素直だなあ…!という中世の人々の感性が浮かび上がってくるわけです。そして、同じ素直さを以て処刑台の前で盛り上がっていたのです。なかなかにえげつない犯罪も起こっていたし、それに対する刑罰も、刑罰に対して祝祭的な盛り上がりを見せていたのもこの頃です。(処刑に対する熱狂は大分後まで続きますが。)

 生活は、はげしく多彩であった。生活は、血の匂いとばらの香りをともにおびていた。地獄の恐怖と子供っぽいたわむれとのあいだ、残忍な無情さと涙もろい心のやさしさとのあいだを、まるで子供の頭をもった巨人のように、民衆はゆれうごいていた。この世のさまざまな楽しみの完全な放棄と、富、歓楽へのあくなき執着とのあいだ、陰険な憎しみと笑いを絶やさぬ気のよさとのあいだを、民衆はゆれうごいていた。極端から極端へゆれうごいて生きていた。(上巻、p.56)

恐らく、「素直さ」が全ての根底にあったのではないでしょうか。あまりにも素直だったから、”神の御心に沿うもの”と”沿わないもの”といった二項対立の世界観(キリスト教の世界観)にどっぷり漬かっていた。あまりにも素直だったから、善と悪がはっきりと分かれている世界をそのまま受け入れる事が出来た。あまりにも素直だったから、時には信心深くもなれるし、時には純度の高い悪意を以て行動することも出来た。あまりにも素直だったから、その時の気分や場の雰囲気に合わせて、どちらにも染まる事が出来た。私は、根底に全て「純粋さ」というか、「素直さ」「愚直さ」があるように読みました。

 この時代の無情さのうちには、しかし、どことなく「無邪気な」ところがあって、つい、わたしたちは、非難の言葉をかみころしてしまうのだ。 (上巻、p.55)

そう、どちらに転んでも無邪気だったんだなあ。中世以後、ヨーロッパではやがて理性の時代がやってきます。理屈で物事を埋め尽くしてしまう前の、祝祭の時代こそが中世だったのかな、なんて思いました。

さいごに

ホイジンガは、中世の人たちの文化や慣習に「プリミティブ」な文化の名残が見られる、と再三繰り返しています。ルネサンスを経て18世紀には啓蒙の時代というのがやってきますが、この理性の行使の時代においては、おそらくこの「プリミティブ」の名残はどこか遠くへ消えて行ってしまうのでしょう。中世は、その最後の名残がかろうじて残っていた時代であり、来たる理性の時代の土壌となった時代であり、そこでは人々の無邪気さが弾けていたのでしょうね。

中世ヨーロッパに興味がある方は是非お手に取ってみてください。その際には訳注にも是非目を通してくださいね。

それではまた!